大判例

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最高裁判所第一小法廷 昭和60年(行ツ)157号 判決 1985年12月19日

千葉県成田市天神峰三三番地三

上告人

小川嘉吉

右訴訟代理人弁護士

葉山岳夫

一瀬敬一郎

千葉県成田市加良部一-一五

被上告人

成田税務署長

安藤又久

被上告人

右代表者法務大臣

嶋崎均

右両名指定代理人

亀谷和男

右当事者間の東京高等裁判所昭和五九年(行ソ)第六号不動産差押処分等取消及び相続税債務不存在確認請求再審事件について、同裁判所が昭和六〇年五月一五日言い渡した判決に対し、上告人から全部破棄を求める旨の上告の申立があった。よって、当裁判所は次のとおり判決する。

主文

本件上告を棄却する。

上告費用は上告人の負担とする。

理由

上告代理人葉山岳夫、同一瀬敬一郎の上告理由について

本件再審の訴えを不適法として却下した原審の判断は、正当として是認することができ、原判決に所論の違法はない。論旨は、ひつきよう、独自の見解に立って原判決の違法をいうか、又は前訴確定判決の不当をいうものにすぎず、採用することができない。

よって、行政事件訴訟法七条、民訴法四〇一条、九五条、八九条に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 高島益郎 裁判官 谷口正孝 裁判官 和田誠一 裁判官 角田礼次郎 裁判官 大内恒夫)

(昭和六〇年(行ツ)第一五七号 上告人 小川嘉吉)

上告代理人葉山岳夫、同一瀬敬一郎の上告理由

一 原審の法律解釈の誤り

原審は、「右判決に、再審原告が主張するような判断遺脱が存在するとするならば、再審原告は、右判決の送達を受け、これに対して上告をする間において、当然右判断遺脱の点を知ったはずであるのに、本件記録によれば、再審原告は、上告理由書において判断遺脱を主張していないことが認められる。」「本件再審の訴えは民事訴訟法四二〇条一項ただし書に該当し不適法というべきである。」と判示している。しかし、以下で述べるとおり、原審判決には、次のとおり法律解釈の誤りがある。

すなわち上告人は、控訴審および上告理由では、瑕疵ある申告書提出行為であるという事実誤認の主張をした。ところが控訴審の判断においては、上告人が農地を潰して空港予定地とするべき課税評価額を承認するはずがないという重大かつ明白な事実について、判断を遺脱する判決を下した。上告人としては、まさか控訴審、上告審が右重要事項につき判断遺脱することはあり得ないものとして、事実誤認の主張のみをしたのである。さらに上告審も右重要事項についての判断遺脱をした右控訴審判決を支持した。ここに始めて、重要事項につき判断を遺脱したという事態が明らかとなった。

右のような経緯で上告人は再審で判断遺脱を主張するにいたったのであるから右主張はこの段階で行う特段の事由があった。これについて判断を看過した原審の却下判決の違法は明らかである。

二 重要事項に関する判断遺脱

<1> 上告人は、一九年間にわたって空港絶対反対を主張し、反対闘争の中心となって、違法な空港建設を拒み続けている。上告人の一貫した姿勢が示しているように、昭和四四年の成田税務署・松戸係長の作成した相続税申告書を、上告人が絶対に認めるはずがない。そもそも空港公団と条件三派との交渉による買収価格を、絶対反対派の上告人が認めるはずがないのである。

そもそも、上告人と本件相続土地は、切っても切り離せないものであり、上告人の生命というべきものである。

上告人は、住所地において農業を営むものである。小川家は、父・梅吉が埼玉県菖蒲町に農家の三男として生まれ、海軍兵役後の大正七年に、親戚を頼って十余三に来た。親戚で農家の見習いをしたり、農地を借りて耕作した。大正十年に、御料牧場の土地を、代りに小作料を払って前任者から引き受け、一年更新の小作農として現在地に移住し、最初は三町八反歩の耕作をおこなった。現在地に来た時は、兵隊に行って貯めたわずかな金だけで、裸一貫同様だった。最初は、柱がなく土から屋根になっている「おがみ」をつくって生活した。入口も一ケ所しかなく、窓は一つもなかった。昭和のはじめに仮住まいを新たに建てたが、障子のはまる所もなく、たたみもなくむしろを敷いていた。昭和九年に自力により十年年賦の土地代金を払い終り、四町八反歩の自作農になり、昭和一三年に現在の本建築の家を建て、その後一貫して農業を営んでいる。

<2> 上告人は、前述したように建設途上の小作農に生まれた。自作農になるために、小学校の四・五年生の時から農作業の手伝いをした。昭和一三年、高等小学校を出る頃には日華事変が始まり、戦争につき進む最中、父・梅吉とともに農業に専念し食料増産に努めた。昭和一三年頃は、麦・落花生・陸稲・里いもを作っていた。農繁期の六月、一〇月、一一月の三ケ月は、朝四時か五時頃起きて農作業をはじめ、農作業を終え寝るのは夜中の一時になった。家族が寝ないうちに鶏が目を覚ますほど働いた。正月も盆の休みもなく働いた。それだけ努力しなければ、畑の維持・管理はできなかった。補助も融資もなく自力で自作農になるのは汗の結晶だった。土地も、御料牧場の牧草地であったため、草が繁茂し、耕作にはたいへんな労働を必要とした。

昭和一六年、徴兵されて農家の働き手がなくなることを心配して一早く、満一八歳になったばかりで、亡き妻・きくと結婚した。昭和一九年、二人の年子の子供をおいて海軍に招集され、海軍の特攻隊の随行員で飛行隊のレーダーの整備士として参戦した。昭和二一年三月に軍隊から帰ってきた時、農地は荒放題になっており、農地の一部が働き手がなく一時貸していたところ農地解放で取られた。次男を分家させ、農地解放で失った土地を数十倍もの高い金を出して、土地を買い、専業農家としての安定をはかった。ようやく畑としての地力もよくなり、肥沃な農地として安定してきたのは昭和四〇年頃である。三代目の長男・耕平も所帯をもち専業農家として将来性もようやく目鼻がたつようになった時期である。昭和四〇年頃は、メロン・くり・さつまいも・すいか・こんにやく・しようがをつくっていた。

こうした矢先の昭和四一年、空港建設が住民には寝耳に水で閣議決定された。上告人の土地に対する愛着は政府の強権に対する民主主義的怒りとなって強力な反対闘争を推進したことは理の当然であった。上告人にとっては、生れ育ち、一貫した農民の職場であり、汗の結晶である農かな農地は上告人の生命そのものである。

本件相続に関する上告人の土地は、相続開始後一六年間たった現在もまったく変わらず農地である。昭和六〇年においては、さつまいも・人参・生が・里いも・ジャガイモ・米を本件相続農地を中心として全面積三五五アールに耕作している。

<3> 上告人は、昭和五六年より農家経営を長男耕平に譲り、農業者年金の給付を受ける立場にある。現在、農業は長男耕平とその妻敏江が中心になっておこなわれている。

このように上告人は、父梅吉が切り開いてきた農民の職場である農地を、子々孫々に譲り渡していく考えである。そのためにも、小川家に降りかかっている農業経営に対する侵害と危機を除去する必要にせまられている。成田税務署の松戸係長(当時)の詐欺・強迫による納税申告に基づく不当な相続税の課税は、昭和四四年当時、農業だけによる収入によっては払えないような課税であり、農民の生活権・生存権を奪うものである。このような不当な相続税の課税がおこなわれるならば、小川家は代々の相続のたびに大巾に農地を減らし、専業農家として存続していくことを不可能にするものである。

<4> このような終始一貫した上告人の立場は、松戸係長から「空港の予定地だから売る売らないに関係なく空港公団の買収予定価格を基準に課税する」と言ったことをがまんして認めるはずがないことは明白である。期限がきてしまうからと勝手に申告書を書いた松戸係長の態度は上告人の意志を無視し踏みにじったものである。

原審は、右の重要な事項について、判断を遺脱した。判断遺脱の違法のあることは明白である。

三 重要事項に関する判断遺脱(つづき)

<1> 上告人は、当初より主張していたように、申告当時、松戸係官が、本件農地の価額を新東京国際空港建設予定敷地買収予定価額の七割相当額とし、記入したことに対して、空港建設絶対反対の立場をとっており、空港建設のため本件農地の買収に応ずる意思は全くないので、本件農地を公団の買収予定価額を基礎とした価額により評価するのは全く不当であり、従前から行われていたように固定資産税評価額に一定の倍率を乗ずる方式により評価すべきである旨松戸係官に異議を述べた。原告はあくまで空港建設に絶対に反対であり、農業を続けていこうとするものである。控訴審ならびに上告審において、申告時の重大な事実について判断の遺脱を行っている。相続税の申告時の経過は次のとおりである。

<2> 昭和四四年二月一三日、上告人は父の死亡により遺産相続の問題が生じた。上告人は、一生に一度しかないはじめての経験であり、当時、成田市選出の県会議員であった小川国彦氏に相続税の申告のことを相続し、八月一三日までに提出なので、申告書の書き方がわからないから、税理士の知っている人がいたら紹介してほしい旨依頼した。申告の書類を作成してもらうことを頼んだのであったが、小川国彦氏が勘違いをして、一三日までに出す申告書を見てほしいと、成田市内の遠藤税理士に頼んだ。遠藤氏から一三日の正午に来るようにとの返事があった。あまり間際なので心配であったがその日のくるのを待った。丁度この日はお盆の一三日であり、父親の新盆でもあり多忙であったが申告の期限日なので、時間を厳守して遠藤税理士宅に行ったが遠藤氏は不在だったので帰ってくるのを待っていた。税理士が帰ってきたのは午後三時を過ぎた頃であった。

早速お願いしたところ何も書いてなく、見てくれとだけ頼まれていたと言い、今日が期限だから、それは大変だといって、お盆なので忙しくて都合が悪いのでできないから、税務署に同行してやるからと税務署まで行ってくれた。三時半は過ぎて四時近かったと思う。署員にもぼつぼつ帰宅する者がいた。係の青野という人も帰るところだった。遠藤税理士は今日が申告の期限だが頼むと言って帰ってしまった。青野という人は、「 は帰るから」と言って、松戸亮係長に頼んで帰ってしまった。

上告人は、松戸係長が書類をみせてくれと言うので、申告に必要な戸籍謄本と市の固定資産証明書などを出した。松戸係長は、書類をみて、上告人の住んでいる天神峰は空港に関係がないのかとたずねたので、上告人は「空港は政府・公団が空港予定地と勝手に決めたことであって私達には関係がない。」「売る気持もないし、空港に反対しているので。」と答えた。松戸係長は、何も書いていない申告書を見ながら、「本当は本人が書くのだけれども、慣れないから時間もかかるし遅くなるだろうから。」と言い、上告人が、「むずかしくてわからないからな。」と言うと、成田市の地番のある地図を取り出してみて、申告書に書き入れはじめた。

<3> また、松戸係長は、申告書の作成中に、何もわからないで気も動転している上告人に、この通りに書いて押印しろと、「四四年二月一三日小川梅吉死亡による相続税申告については種々都合により申告期限まで遅れてしまったので代筆をお願ひ致しました。この申告書は私が責任を持ちます。昭和四四年八月一三日 成田税務署長殿 成田市天神峰 小川嘉吉」と念書の下書きした紙片を渡され無理やり書かされた。

松戸係長は、上告人から資産の内容である山林の樹令・農具・貯金・家財道具・電話・葬儀費などを聞き、税額五、三三五、〇〇〇円を申告書に書いた。上告人はそれを見て額があまりに高いのでびっくりして、「どうしてこんなに高いのか。」と聞いてみたら、松戸係長が、「空港の予定地になるから、田一〇五万円、畑九八万円として課税したからだ。」と答えた。上告人は「空港に関係ないというのに書いてしまったのはおかしい。直してくれ。」と言った。しかし、上告人から念書も取りつけてしまっていた松戸係長は、「もう書類も作ってしまったし、時間も遅いから今日が申告の期限日なので、どうしても今日中に出さなければだめだ。」と強要され、問答の末「あとで修正できる」と松戸係長が言ったので、やむをえず一方的に作成された申告書に署名押印させられ、無理矢理に提出させられた。

<4> さらに、松戸係長は、「大金だから一度に納めるのは大変だろうから、分納の手続きだけでもとっておいた方がよい。今日しかできないから。」と言った。上告人は、修正によって必要がなければ取り消してもよいものと思い、申請だけを出しておいた。松戸係長は、「あとで説明するから」と言って、紙片に資産課税総額と相続税総額の書いたものを上告人に渡し、「今日はこれで帰ってくれ。」と言い、納付金のことは何も言わなかった。

あとで修正が出来ると言っていたが、疑問に思って、もっと納得の出来る説明をしてもらおうと思っていたが、もう夕刻でもあり、お盆の一三日で父親の親盆なので帰りが余り遅くなると家人が心配すると思い、税務署を信用して家に帰った。署を出る時はもう陽も暮れかかり家の近くにきた時には、ライトも必要になっていた夕暮だった。すでに上告人の家には新盆の来客が多く来ていた。

<5> 以上の経過にも明らかなように、上告人は空港建設に反対しているのであり、相続税の申告時、空港公団と条件四派の買収価額を基礎にした評価額を認めるはずがない。

この点に関して、控訴審、上告審は、判断を遺脱しており、原審の誤りは明らかである。

以上

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